募集要項




楽文事業運営部会 世話人 中村巨樹






金田 港 大森 春輝 大村 結子 秀島 弘太郎 伊田 心 本田 景三朗
博多小学校3年 別府小学校1年 博多小学校3年 赤間小学校1年 照葉小学校2年 照葉小学校1年
西原 雅博 村山 ひびき 石澤 紗若 蒲原 玲愛 上田 穂乃香 木村 快帝
香住丘小学校6年 博多小学校2年 和白丘中学校1年 大原小学校4年 博多小学校3年 博多小学校3年
岩切 那瑠彦 本田 あやな 川上 姫奈 小泊 真歩 高田 桜実 藤本 初音
東住吉中学校2年 博多小学校4年 野間中学校1年 金武中学校1年 東住吉中学校1年 千代中学校1年
内田 奈々子 村上 美奈 坂口 遥奈 西尾 莉々子 松尾 文寧 白水 将太
東住吉中学校2年 多々良中央中学校1年 多々良中央中学校1年 博多中学校2年 野間中学校1年 小呂中学校2年
丹羽 涼香 尾家 ほの香 三宅 有紗 嘉村 悠平 仲村 杏花 幸 百伽
内浜中学校2年 当仁中学校2年 下山門中学校3年 平尾中学校2年 下山門中学校3年 多々良中央中学校3年
     







博多祗園山笠振興会賞 金田 港 (博多小学校3年)
「大切なおまつり山がさ」

 はじめに、子ども山がさに出ました。ぼくは、山がさに出ることがはじめてでした。ぼくは、子どもやまがさがはじめてだったので、何をすればいいのかわかりませんでした。ぼくたち三年生は、 あとおしかかりでした。じゅん番に、前に出てまねきいたを持ったり、台上がりをしたりしました。まねきいたを持って走ることは、とてもむずかしかったです。
 ぼくは、台上がりが一番楽しかったです。台の上から見るけしきが、とてもよかったです。天気がよかったけれど、水をかけられると、とてもさむかったです。
 子ども山がさは、三日間ありました。この三日間は、ぼくにとって、すっごく楽しい三日間でした。 
 子ども山がさがおわった次の日から、ふつうの山がさがはじまりました。ぼくは、ふつうの山がさもはじめてだったので、少しどきどきしました。
 ふつうの山がさは、一週間つづきます。一日目は、おしおいとりでした。水はかけられなかったけど、今までで一番走ったので、帰ってしゅくだいをしている時、とてもねむくなりました。
 二日目、ついに山が動きます。ぼくは、土居流です。町内で流れがきだったので、たくさん水をかけられました。
 三日目はおい山ならしでした。あとちょっとだけど、さいごまで走れませんでした。
 四日目は集だん山見せでした。その時ぼくは、出られませんでした。なぜなら、ねつを出していたからです。次の日も出られませんでした。
 そしてさいしゅう日、夜中の二時半に集合して、おい山がはじまりました。さい後まで走れなかったけれど、ぼくの一番の思い出になりました。
 ぼくは「火の雨がふる」を読みました。山がさは七百七十一年つづいていました。しかし、山がさができなかった年があります。それは、せんそうの時です。みんなが大すきな山がさが せんそうのためにできなくなってしましまいた。せんそうで、たくさん人が死んでしまいました。
 ぼくは、山がさが一番のおまつりだと思っています。山がさがせんそうでできなかったことは、とてもくやしいです。せんそうは、家族や友だちやおまつりをうばう悪い物だと思います。
 これから、おまつりや家族や友だちをうばうようなことがないように、ぼくは、ねがっています。そして、これからずっとずっと楽しい楽しい山がさがつづけばいいと思います。


博多祗園山笠振興会賞 西原 雅博 (香住丘小学校6年)
「ラグビーマガジンカップ」

「ピー。」
と、レフリーがふえをふいた。その時、ぼく達対春日の第一試合が始まった。十点入れられいきなりピンチ。そこでコーチが言った。
「リラックス、リラックス、自分たちのラグビーをしたら勝てる。」
 そこからぼく達のスイッチが入った。連続で五十点くらい点を入れ、第一試合を勝ちに収めた。ぼく達かしいは、まず落ち着きをとりもどした。
 三十分休けいして、午後の第二試合に備えた。相手は、前回の試合で同点だった、宮崎のチャンピオンチームだ。
 試合が始まると、また十点入れられた。でもぼく達は負ける気がしなかった。その後、前回の春日戦のように五十点くらい入れ、勝ちを収めた。
 試合後、宿舎にもどると、みんな勝利にうかれて、ふざけておどったり、走ったり、すもうやレスリングなどをしたりしていた。ぼくは、友だちとサッカーをしていた。そんな とっても楽しかった夜も終わり、三日目の朝が来た。
 朝起きたしゅん間、意外なことに気づいた。阿そ市は寒かったのだ。とってもとっても寒くて、ふとんをかぶった。そして動こうとすると、体のいろいろなところが痛く感じた。
 いよいよ三日目のラグビーが始まった。試合前、いつもリラックスしていたけど、今日は、
「リラックスするな。気合だ、気合を入れろ。」
とコーチが言った。アップをし、鹿児島チャンピオンとの最終決戦が始まった。勝ったら九州チャンピオンなので、みんなはとても気合を入れて試合にのぞんだ。
 鹿児島はタックルが確実で、せめても、せめても止められた。その時、油断をしていたところをせめられて、点を入れられた。
 リードされた後半、一人の気持ちが勝利を導いた。いきなり相手ゴールまでせめて、そこから点を入れた。流れが変わったのがぼくでもわかった。そこから連続で点を入れ、 勝利。相手はくやしなみだを流していて、ぼく達のキャプテンはうれしなみだを流していた。
 ぼくたちは、ついに九州の大会で優勝できた。ぼくは生まれてから一番うれしかった。
 表彰式では、ぼく達が呼ばれた時、いろんなチームが、
「かしいは強いね。」
と言っていたのでうれしくなった。
 この大会で優勝して有名になり、いろいろなチームから試合をしてくださいとオファーがあった。だから九月は試合が四試合も続く。それに向け、日々の練習をしっかりこなして、 すべての試合に勝てるようにがんばっていくつもりだ。


博多祗園山笠振興会賞 岩切 那瑠彦  (東住吉中学校2年)
「僕の家族」

 一年前、僕たちの家族は、アメリカ合衆国のニューヨーク州に住んでいました。十三年前、仕事のためにお父さんはアメリカに来ていて、お母さんは一人暮らしをしにアメリカに 行きました。そして、僕はアメリカで生まれ、その五年後に弟の有輝彦が生まれました。アメリカでは十三年間の間を過ごしました。
 僕と弟は普通の学校に通っていて、毎週土曜日に、日本人の子どもたちが行く日本語の補習学校へ行っていたので、英語と日本語はちゃんと話せていました。日本語と英語以外に アメリカの学校の特種授業のスペイン語もほんの少しだけ習いました。お父さんとお母さんは、英語を必要な時は話していました。
 お父さんがやり続けている仕事は、スポーツカメラマンです。野球界の松井選手などのメジャーリーガーの選手の試合の活躍を映像で撮っています。
 お母さんは弟の世話などで忙しすぎるので、働いてはいません。
 お父さんは、今、東京で単身赴任をしているので、会う機会が少なくなっているから、とてもさびしく感じるときがあります。
 アメリカで家族全員いたときは、みんなうるさかったです。
 例えば、食わず嫌いの弟。食べる前に、
「腹いっぱい。」

「これ、くそまずそう!」
と言って、お母さんから怒られるばかりでした。しかしぼくは、そんな家族のほうが、楽しい時間を過ごせました。
 僕は、もう一回、家族全員と昔の生活に戻りたいと思っています。ずっと住んでいた思い出がある前の家に入って寝たいという想いが今でもあります。
 お父さんに、
「アメリカに帰りたい。」
などのことを言うと、
「ダメ。」
「今は多分無理だと思うよ。」
としか言わないので、僕もそろそろあきらめようと思っていますが、大人になったら自分の故郷に帰って、そこで住みたいという気持ちも持っているので、まずあきらめないで、 いつか僕の故郷へ帰れる時が来るまで何年も待ちます。


博多祗園山笠振興会賞 内田 奈々子  (東住吉中学校2年)
「好きな事」

 私は、音楽が大好きだ。音楽には、いろいろな事があるが、私は歌を歌うことが特に好きだ。
「好きな事をずっとしていれる。」それが私の部活を決める基準だった。
 私の学校の音楽部は、合唱をする。私は元々、一人で歌うことも好きだったが、みんなで歌うことも好きだった。だから私は、迷わず音楽部に入った。
 音楽部で一緒に合唱する仲間には、いろいろな性格の人がいた。
 とても明るく、楽しそうな人。真面目で、頼りになる人。元気な人。怒りっぽい人。おとなしくて、恥ずかしがり屋な人。こんな人達が、たくさんいる。
 そんな人達が歌う、それぞれの世界の歌が、合唱をする事によって、一つのきれいな音になる。だから私達、音楽部はすごく楽しい。
 そんな私達は、8月上旬にある、「NHK全国学校音楽コンクール」通称「Nコン」に出場した。
 今年の課題曲は、YUIさんの「fight」だった。
 この「fight」という曲は、すごく現実的な歌詞が詰まっていると私は思った。最初の「絵描く夢がすべて叶うわけなどないけれど」という歌詞がその代表だと思う。すごく冷たい 言葉だが、現実はそんなものだと伝わってくる。ただ、その事を受け入れようとする気持ちが、続きの「壊れそうな空だってあたしは受け入れるから」という歌詞からわかる。
 私は、そんな歌詞を、言葉として伝えるように心がけて歌っている。歌には、いろいろなメッセージが歌詞として詰まっているからだ。
 その様な事を考えると、歌は本と似ていると思った。
 理由は、歌には物語と同じように、起承転結がある。例えば、最初は絶望といったように、暗く、悲しいが、努力などをして、最後には希望に満ちて、ハッピーエンド。という話などが見えてくる。
 このような事が歌で伝えれる事が、音楽の良い所だと私は思う。
 だから私は、「歌を聞かせる」ということより、「言葉を伝える」という風に心がけて歌う。
 私は、私達、音楽部の歌で、言葉を伝えてみんなに喜んでもらったり、感動をしてもらいたいと思っている。
 私は、歌にはそんな力があると思う。私達は、その歌の力を存分に発揮して、みんなに心から感動して、「もう一度聞きたい。」と思ってほしい。
 私は、その夢を叶えるまで、歌の力を信じて歌っていきたいし、ずっと歌を、音楽を好きでいたいと思う。
そして、みんなにも、そんな力のある、歌を好きになってほしいと思う。


博多祗園山笠振興会賞 丹羽 涼香  (内浜中学校2年)
「きっとこの作文を読むと、あなたもバレエを踊ってみたくなるであろう」

 「お願いします。」
 バーを持った瞬間、私はバレエの世界に吸いとられていく。
 私にとって、踊るということは、ご飯を食べるのと同じことだ。お腹がすくと、ご飯が食べたくなる。それと同じように、私は踊りたいと思ったら、踊らずにはいられない。せまいリビングでも、 トイレに行くのにも、無意識のうちに、私は踊っている。父に邪魔だと怒られたこともある。
 なぜ私が、そこまでバレエを好きかというと、少しずつでも毎日上手になっていくからである。高いところを目指すと、どんどん課題が見つかっていく。それを私たちは、 毎日繰り返しているのだ。だから、病み付きになるのであろう。
 私は週五日はバレエ教室に通い、多いときで週に七レッスンも受けるときがある。特に土曜日は、二時間のレッスンを続けて二回受けている。レッスンの後も、自由練習をし、 家に帰るのは、夜の十時や十一時にもなる。
 音楽が鳴っているときは、一つの振りでも、体中を伸ばして使わなければいけない。常に股関節を開き、上半身を使い、足先まで神経を行き届かせなければいけない。鏡越しに 自分を見てチェックしている。そのため、レッスン中の2時間はとても短く感じる。
 無我夢中で踊っていると、
「これで終わります。」
と先生が言ったときには、はっと我に返り、時計を見て、いつも驚くのである。
 バレエは決まりだらけである。動きには、意味がきちんとある。踊りも大体の振りが決まっている。この場面には、この曲で、この振りということが決まっている。
 しかし、人それぞれ、自分がきれいに見えるように、手や足の角度を変えたりしながら踊っている。だから踊りは十人十色なのである。私は、そのことに最近気がついた。私は バレエの決まりの中で、一番きれいに見えるラインを探している。
 私は昨年の五月に、生まれて初めて、プロのバレエを見た。日本を代表する熊川哲也主演の「ロミオとジュリエット」である。チケットがものすごく高かったため、 私一人で公演を見に行った。プロの公演は一人一人が輝いて見えた。わかってはいるだろうが、バレエにはセリフがない。ロミオとジュリエットの関係をセリフ無しで伝えることは、 とても難しいことである。しかし、公演を見ると、なぜかロミオとジュリエットの気持ちが私の胸に響いてきた。気がつくと、私の頬が濡れていた。私は熊川哲也のような、 人を感動させられるバレエダンサーになりたいと、あらためて思った。
 しかし、こんな私でも、挫折を味わったことがある。五年生のときに教室を変えた。新しい教室は、私より上手な子がたくさん居たため、すごくショックだったということを 覚えている。前の教室では、自分は上手なほうだと思っていた。今の教室に来たときは、言葉が出なかった。自分と同じ年の子は、回転はするし、ジャンプは高いし、はっきり言ってついて行けなかった。
 幼稚園のころから通っていた教室の先生は、あまり注意をしない先生だった。そのため、教室の雰囲気はのんびりしていた。私がレッスンを増やしたいと言っても、
「難しくて、バレエを嫌いになるから。」
と断られた。このままで良いのだろうかと考え、今の教室に体験レッスンを受けに行った。これほど教室のよって、レベルが違うのかと、ショックを受けた。
 教室を変えるか迷っていたときに、
「教室を変えなかったら、もう少し真ん中で踊れるようになるかもしれないよ。だけど、教室を変えたら、上手な子がたくさんいるから、ずっと後ろで脇役として、 踊ることになるかもしれないよ。どっちを選択するの。」
と母が言った。私は黙ってしばらく考え、
「ずっと後ろで踊ることになっても、良いの。もっと上手になりたいから。」
と答えた。
 私は必死で追いつくために頑張った。自分がされた注意も、人がされた注意も、きちんと聞いている。
 移ってきた最初の頃は、ちゅういされるということが嫌いだった。しかし今は、注意されることがとても嬉しくなった。それは、自分が上手になれる懸け橋であるからだ。
「ありがとうございました。」
 レヴェランス(お辞儀)すると、私はバレエの魔法から開放される。
 私にとって、バレエとは、生命の輝きである。これからもっと輝かせていきたい。ダイヤモンド以上に。


毎日新聞社賞 大森 春輝  (別府小学校1年)
「ゆうかちゃん」

 ゆうかちゃんは、ぼくのいもうとです。
 ゆうかちゃんは、7かげつのあかちゃんです。
 ゆうかちゃんは、なんでもなめます。
 ゆうかちゃんは、ほっぺをさわるとぷにゅぷにゅです。
 ゆうかちゃんは、なんでもにぎります。
 ゆうかちゃんは、ぼくがさんたくろうすにおねがいしてうまれました。
 ゆうかちゃんは、ぼくがなまえをつけました。
 ゆうかちゃんは、ないたときおかあさんがだっこをするとなきやみます。
 どうしてかというと、いっつもおっぱいをあげているからです。
 だからゆうかちゃんがごはんとかたべれるようになったら、あんしてあげたいです。そしてゆうかちゃんがないたらぼくがだっこをしてなきやめるようになりたいです。
 ゆうかちゃんは、やさしいゆうかになりそうです。
 ゆうかちゃんは、ずっとぼくのだいすきないもうとです。


毎日新聞社賞 村山 ひびき  (博多小学校2年)
「らい年は出るぞ」

 ぼくは、山かさに出ていません。なぜかというと、はずかしいからです。なぜはずかしいかというと、しめこみをするのがはずかしいからです。
 でも、毎年見にいってます。すきだからです。どういうところがすきかというと、「オイサーオイサー」というこえが大きいからすきです。見たら、元気でいっしょうけんめいで がんばっているのでぼくも元気がでてきます。
 こ年も見にいきました。ながれがきとおい山を見ました。ながれがきは、いえの前を通ります。お友だちがいっぱいでていました。友だちの名前をよんでもだれも きづきませんでした。いっしょうけんめいできづかなかったからさみしかったです。らい年はでようと、はじめて思いました。
 毎年きんじょのやす川さんというおじちゃんに
「おいぼうず山かさにでらんか。」といわれます。
 ぼくは、
「いやいいです。」
といいます。
 おかあさんは、毎年、
「もう、せっかくやす川さんにこえかけてもらようけんでたらいのにね。」
と言います。
 だかららい年は自分からでます。といおうおと思います。
 らい年の山かさがたのしみです。


毎日新聞社賞 本田 あやな (博多小学校4年)
「山かさ」

 わたしの住んでいる博多の町では、7月9日から7月15日の6日間博多ぎおん山かさが行われています。
 山かさは、約770年前からつづいている伝とうのあるお祭りです。7つの山かさがタイムをきそい合って博多の町を走ります。
 わたしは、今年この山かさに4日間参加しました。まず、9日のおしおいとりに出ました。おしおいとりというのは山かさの間の安全をいのるためにすなを箱ざきはまに とりに行きます。暑い中、水もかからず走ったので足がとてもいたかったです。次に、10日の流れがきに出ました。流れがきというのはその流れの町内を走り、 初めてかき山が走ります。かき山のスピードがはやくておいつかれそうになったので全力でいっしょうけんめい走りました。その次に12日の追い山ならしに出ました。追い山ならしというのは 一番山から順番にくし田神社でタイムをきそい合います。それから4キロ走ります。くし田神社のタイムもそれからゴールまで行くのも一番だったのでうれしかったです。さいごに、 13日の集団山見せに出ました。集団山見せというのは福岡の町に山を見せに行きます。この日は妹もいっしょに出ました。大雨がふったので寒かったけど妹といっしょにがんばって走りました。
 山かさは毎日たくさん走るので、足はいたくなるし、とてもつかれます。でもなぜか次の日になるとつかれをわすれてまた走ってしまいます。山かさにはそんなふしぎなみりょくが あると思います。だから770年もつづいてきたのかなと思います。わたしはこの山かさが、そして博多の町が大好きです。


毎日新聞社賞 村上 美奈 (多々良中央中学校1年)
「大好きなお父さん」

 今のお父さんは、私にとって二人目のお父さんです。私の一番最初のお父さんは、私が三歳くらいの時、お母さんと離婚しました。でも、私は今のお父さんの方が大好きです。その理由は、 どこのお父さんよりも一番優しいからです。
 お父さんは、誕生日やクリスマスなど何かお祝いごとがある時は、いつもギリギリまで内緒です。なので、お父さんからプレゼントをもらった時は、あまりにもギリギリすぎて 驚きました。でも、驚いた分嬉しいです。しかしそれだけでなく、お父さんの周りの方からも祝福を受けたことがあります。お父さんと同じ会社の方からは、自転車や本物のアイスクリームを 作ることができるおもちゃなどをもらったことがあります。
 私とお父さんが親子で好きなことは、野球観戦です。なので、毎週のように野球観戦に行きます。二人そろってユニフォームを着て、メガホンを持って、応援します。その時が一番、 二人の気が合います。又、お父さんは、一緒に観戦している知り合いと選手の応援歌などを使って、面白いギャグを試合前から試合後までずーっと言っています。でも、新しい選手が入団すると その選手の応援歌を、ギャグを言っている時には考えられないくらい、真面目に覚えています。そんなお父さんに負けないように、私も頑張って覚えています。
 他に私とお父さんが好きなものは、アニメのワンピースです。毎週日曜日は親子で早起きをして、二人でワンピースを見ています。ゲームセンターに行った時は、ワンピースの フィギュアなどをUFOキャッチャーなどで獲ってくれます。又、旅行に行った時は、ワンピースのご当地ストラップを買ってくれます。そのストラップは、部屋にかざって集めています。
 お父さんは、料理が好きでよくご飯を作ってくれます。お父さんはこだわり屋さんなので、どの料理にも個性があり、あきない美味しさです。日曜日の朝やお母さんが出かけている時は、 必ずご飯を作ってくれます。なのでその時は、いつも楽しみです。
 こんなに優しくて『ヒーロー』のようなお父さんなのに、素直に
「ありがとう」
と、言うことがなかなか出来ません。それでも、やっぱり優しいお父さんが大好きです。なので、いつかは絶対に『感謝』の思いを伝えたいです。
 又、こんなお父さんを選んでくれたお母さんにも、『感謝』しています。


毎日新聞社賞 尾家 ほの香 (当仁中学校2年)
「心温まる絵本」

 絵本は誰もが読んだことのある、一番最初に出会う本だと思います。私も小さい頃は絵本が大好きでよく読んでいました。少ない言葉で書かれている絵本はあっという間に 読み終わってしまいます。しかし、読み終わった後には楽しい気分や温かい気持ちにさせてくれました。小さい時に大好きだった絵本は、中学生となった今でも温かい気持ちにさせてくれます。
 ここで、私の好きな絵本を一冊紹介したいと思います。題名は「だいすきなグー」です。作者はごとうやすゆきさん、絵はいもとようこさんです。このお話は小さな男の子と 犬のグーの出会いから別れまでが描かれています。グーと過ごす毎日の幸せな日々が絵からその姿が目に浮んできます。思わず笑顔がこぼれました。しかし、ページをめくるにつれて グーはしだいに体が弱っていきます。そして、とうとうグーは動けない体になってしまいます。そんなグーに必死に寄りそって声をかけている男の子の姿は何とも言えない複雑な気持ちに なりました。ついに、グーは死んでしまいます。ずっと一緒にいた、毎日いてくれていることが当たり前だった存在を失ってしまいました。その失った悲しみで男の子は毎日泣きました。だけど、 男の子はいつまでも泣きませんでした。目をつむるとすぐそこにはグーがいたからです。グーはいなくなってもグーとの思い出は消えません。私はこの絵本からは今私の周りにいてくれる 家族や友達は今日は一緒に居れて笑い合うことができても、明日からはもしかしたらそれができなくなるかもしれないと思いました。周りに当たり前のようにいてくれる人達は決して、 当たり前の存在ではないということを教わりました。周りで支えてくれる人達、大好きな人達と過ごせる1日1日を大切にしていこうと思いました。悲しいこと、つらいことがあったときに この絵本を読むと支えてくれる人がいる自分がとても幸せに思えました。
 絵本は、本当に楽しい気分や温かい気持ちにしてくれます。絵本は、決して小さい子だけの本ではないと思います。夜、眠れない時や悲しいこと、つらいことがあった時、 小さいころ大好きだった絵本を手に取って読んで見て下さい。絵本はきっとあなたの心をそっと温めてくれるでしょう。これからも、多くの人々に子供から大人までに愛される絵本で あってほしいです。世界中の人々に愛される絵本であってほしいです。


NTTドコモ賞 大村 結子 (博多小学校3年)
「子供山笠 大好き!」

 私は、子供山笠が大好きです。台上がりをさせてもらったり、あつい時にバケツやホースで水をかけてもらったり、おわると毎日アイスクリームをもらったりして、とても楽しいからです。
 でも、女の子は、三年生までしかさん加できません。私は、一年生・二年生でさん加して、「今年はさい後の子供山笠!」のはずでした。それなのに、私は、さい後のチャンスを 自分からすててしまいました。三年生になると、さん加する女の子は、学年で二、三人しかいません。それで、ついうっかり、
「さすがに、三年生になったら、おしり出すのはずかしいよねぇ。」
と、みんなに言ってしまったので、さん加しにくくなりました。
 子供山笠当日、私はさん加できず後かいしながら、ゆううつな気持ちで、くし田入りを見ていました。すると、友だちのお兄さんが、台上がりをしていました。いつもは、 やさしい顔のお兄さんが、しんけんな顔をしていました。他のお兄さんたちも、いつもとちがう、しんけんな顔をしていたので、きんちょうかんがつたわってきました。良いタイムが出ると、 みんなでよろこび、見物している人たちから、大きなはく手をもらっていました。私は、その様子を見て、(山は、どのくらい重いんだろう。かいてまわるのは、 どのくらいきついだろう。その重さやきつさをがまんして、良いタイムが出たら、どのくらい気持ちがいいんだろう。みんなからの大きなはく手や声えんは、どんな風に聞こえているんだろう。)と、 思いました。
 今年、さん加できていたとしても、女の子の私には、ぜったいに体けん出来ない事ばかりで、男の子たちがうらやましいです。男の子に生まれかわってさん加するので、 いつまでも子供山笠がつづいてほしいです。


NTTドコモ賞 石澤 紗若 (和白丘中学校1年)
「世界一きれいな色」

 「ピー」
 鋭い笛の合図で、ロンドンオリンピック女子サッカーの決勝戦が始まった。テレビの前には、いつかこのピッチに立つ自分の姿を想像しながら応援する私がいた。
 私は、サッカーをしている兄の恰好良さに憧れて、小学一年から同じチームに入団した。
 男子チームに女子一人という環境で、初めはなかなかなじめなかった。しかし、そんな私を救ってくれたのが三年生の「名郷雅人君」だった。
 名郷君は初心者の私に、いろいろていねいに教えてくれた。そのおかげで私は少しずつチームに慣れ、サッカーをより好きになる事ができた。
 試合で勝った時はとてもうれしくて、皆で飛び上がって一緒に喜んだ。そんな「達成感」をいつも味わっていたいので、サッカーを辞めようと思った事は今まで一度もない。
 しかし、突然あの日はやって来た。名郷君がサッカーを辞め、野球を始める事になったのだ。とてもショックだったが、別の道でがんばるという名郷君の決意は固く、それならしっかり応援しようと思った。
 中学生になり、私は「福岡Jアンクラス」のユースチームに入った。小学生の頃とは全く違う女子だけのチームで、皆と仲良く楽しくサッカーが出来ている。女子の高校生チームや男子の 中学生チームなどと対戦するのだが、となりのポジションには、一番頼りになるかんとくの「裕美さん」がいて、常に細かく指示してくれるのでとても勉強になる。練習メニューは曜日ごとに 決まっていて、かなりハードなスケジュールだが楽しくがんばっている。女子サッカーの人気と共にメンバーは年々増えてきて、ライバルが多くなる分、 絶対に負けるもんか!!という気持ちも強くなった。


NTTドコモ賞 川上 姫奈 (野間中学校1年)
「おじいちゃん」

 私は、おじいちゃんの事が大好きです。おじいちゃんは、私が四年生の時に亡くなりました。おじいちゃんは、病気で亡くなりました。ずっと入院していたおじいちゃんは、いつものように、
「家に帰りたい。」
と言っていました。ほかにも、
「大福とか、がめにが食べたい。」
とも言っていました。
 おじいちゃんが入院する前、私が、おじいちゃんの家に行くと、おじいちゃんは、笑顔になって、とてもうれしかったです。おじいちゃんは、いつも私達、孫に優しくしてくれました。
 おじいちゃんが、病気にかかったのは、初めてではありませんでした。これまで、何度も病気と戦ってきました。私も、最後は家に帰ってほしかったし、おじいちゃんの大好きな大福やがめにも、 いっぱい食べてほしかったです。
 おじいちゃんが亡くなる三日前、私は、あまり、おみまいに、行けてなかったので、おみまいに行きました。私は、折り紙が得意なので、折り紙で、ボールをつくって、おじいちゃんに 持っていきました。そしたら、おじいちゃんは、
「すごいね。すごい。」
と言って、笑っていました。私はおじいちゃんが、すごいね。と言ってくれたことが、うれしかったのか、その後家に帰り、たくさんボールを折りました。次の日は、用事で、おみまいに行けなかったので、 明日は、おみまいに行こうと思っていました。が、その日の朝、おじいちゃんは亡くなりました。私は、あの時のおじいちゃんのうれしそう顔を、忘れられません。だから、私は今でも、 ボールを、折り続けています。おじいちゃんが天国で、笑っていられるように。
 私が、「おじいちゃんの事が大好きでした。」ではなく、「おじいちゃんの事が大好きです。」と書いているのは、私の心の中で、おじいちゃんは、生き続けているからです。


NTTドコモ九州賞 坂口 遥奈 (多々良中央中学校1年)
「私が大好きなこと」
 私には、大好きなことがあります。それは部活でしているソフトテニスです。入学したばかりの時から絶対部活はソフトテニス部に入ると決めていました。
 五月末、ソフトテニス部の仮入部に行きました。やさしい先ぱい方に囲まれて自己紹介をするのはちょっとはずかしかったけど、楽しい部活ということはすぐに分かりました。
 一週間、仮入部をしてやっとあこがれていたソフトテニス部に入ることができて、すごくうれしかったです。私は、
「三年間がんばるぞ。」
と心に誓いました。
 初めの方は、ずっとラケットの素振りでした。素振りはうでも足も体のほとんどが、筋肉痛になりました。なので、この頃の私は素振りがとにかく大きらいでした。
 その後やり始めたことは壁打ちでした。壁打ちは、ボールが使えるからとっても楽しかったです。
 中体連が終わって、三年生の先ぱい方は受験勉強のため練習に来なくなりました。残ったのは二年生と一年生。新部長も決まり、新チームがついに動き出しました。
 五つの班に分かれて練習が始まりました。落とし打ちや手投げなど、基本的な練習をしました。私は、どちらかというと打てていた方でした。
 しかし、足を細かくたくさん動かしながらレシーブをする練習がありました。私は、
「基本的な練習が出来ていたから、この練習も出来るよね。」
と、自信がありました。でも、いざやってみるると全く足が動きません。結局、ボールに追いつけずレシーブすることが出来ませんでした。
 私は、この事がものすごく悔しくて泣きそうでした。基本的な練習も真剣に取り組みました。そして、ちょっと時間が空いた時には前までいやでしてなかった素振りを一生懸命しました。
 そしてついに、初めてボールに追いついてレシーブすることができました。その瞬間は忘れられない位うれしかったです。
 夏休み、プロエース杯という大会がありました。一年生からも六人出すと先生から言われていたので毎日一つ一つていねいに取り組みました。そして当日。私はその六人の中に 入ることができました。もう言葉にならない位うれしかったです。
 大会後、あらたな課題が出来ました。これからはこの課題を達成するために、もっと練習をがんばります。そして、ずっとソフトテニスが大好きな私でいます。


NTTドコモ九州賞 三宅 有紗 (下山門中学校3年)
「父の姿」

 私の父は四十四歳のO型である。しかし、物を片付けることに関しては几帳面でA型のようだ。顔は、私に眼鏡をかけた感じだとよく言われる。不思議と嫌な気はしない。父の事を よく知らない人から見ると、物静かな人と思うだろう。しかし私は、違う姿の父を知っている。
 ある夏の日、私達家族は祖父の家を訪れて、一緒に魚釣りをしに行った。それ以来、私と父はすっかり魚釣りにはまってしまった。毎週毎週、父と行く魚釣りは、朝起きるのが とても早かったが苦に感じることはなかった。当初は、近場の防波堤で小さな魚を釣っていたが、しだいに本格的になり、朝早くから夕方まで、黒鯛釣りに没頭していた。普段は怒る事のない 父であったが、釣り道具やマナーに対しては人一倍厳しく、嫌になったこともあった。しかし、私に魚を釣らせてあげようと一生懸命に教えてくれる父の目は、いつにも増して、キラキラと 輝いていた。そんな父との時間が好きだった。
 私が六年生ぐらいの時、父はよく「中学生になったら、口もきいてくれなくなるんだろうなぁ・・・。」とつぶやいていた。私は、そんなはずあるわけないと思った。
 しかし、実際はどうだろう・・・。もちろん、父の事を嫌いになったわけではない。今でも、普通に会話もするし、仲良くしている。けんかすることもないが、小学生の頃とくらべると、 父との会話が減ったような気がする。小学生の頃より、父との時間が少なくなったのが一番の原因だとは思うが、時々、父が言ったことに『イラッ』としてしまう。質問と答えが違うのだ。答えが 違うというのは、私が考えている答えと違うとか、そういう問題ではなく、質問の内容と大幅にずれた答えが返ってくる・・・。私の話の何を聞いていたのかと『イライラ』する。昔の私だったら、 笑って許していたんだろうなと、今の自分が嫌になる。父はこんな私にも、優しくしてくれる。テスト前になると、「父さんは邪魔だろう。」と言って、外食を増やす。父の居場所をうばってしまい 申しわけない。また、私がテスト勉強をしていると。手には、駅前のケーキをぶら下げて帰ってくる。そんな父の心遣いが、私を頑張ろうという気持ちにさせてくれる。
 中学校の授業で『命』について学ぶ機会があり、自分がものすごい確率で生まれてきたことを知った。この地球には、約六十億人もの人がいるらしい。その中で私の父が、私の父で本当に 良かったと思う。物静かそうな父も、魚釣りをしている時は、すごく楽しそうで生き生きとした表情を浮かべる。この表情は、母も知らない、私だけが知っている父であろう。少し照れくさそうに 気遣ってくれる所も父の良い所である。人間の『命』というのは無限ではないから、今ある時間を大切にして、きちんと感謝の気持ちを伝えたい。


日本アイ・ビー・エム賞 秀島 弘太郎 (赤間小学校1年)
「えいがかん」

 ぼくは、えいががすきです。たのしいからです。おとがおおきいです。ぽっぷこーんをたべるともっとたのしくなります。
 なつやすみに、おとうとのそうすけとかいせいとおかあさんとで、えいがかんにいきました。おかあさんにやくそくをしていました。だからどきどきしました。けんをかったとき、 それがほしかったのでうれしかったです。けんをかかりのひとにわたしたときにきねんひんをもらいました。うれしかったです。
 なかにはいるといすがたくさんあいていました。おきゃくさんがすくなかったからです。いちばんみえやすいところにすわりました。えいががはじまりました。しゅじんこうが すごかったです。えいががおわったときすごくたのしかったです。
 えいがかんからでたらみんなでうどんをたべました。つめたいうどんをたべてすずしかったです。
 えいがはおうちでみるよりえいがかんでみるほうがどきどきするからだいすきです。


日本アイ・ビー・エム賞 蒲原 玲愛 (大原小学校4年)
「私が大好きな事」

 私が大好きな事は、2才の弟のお世話をする事です。
 弟が生まれてくる事をとっても楽しみにしていた私は、小さな弟がかわいくて仕方ありません。
 生まれたばかりのころは、小さくてあぶないから、お母さんがお世話をするのを見ているだけだったけど、ちょっと大きくなって、私にもできる事がたくさんふえました。
 どんな事をしているかというと、オムツをかえたり、お着がえをさせたり、ごはんを食べさせたり、おふろに入れたりしています。
 他にも、泣いたらだっこしてあげたり、わるい事をしたらおこったりもしています。
 まわりの人たちから、「えらいね。」とか「小さなお母さんだね。」とよく言われます。うれしいけど、たまにお世話をするのがいやになる時もあります。
 自分があそびたい時や、つかれている時はいやだなぁと思います。
 でも、他の兄弟の名前は言えないけど、私の名前だけよんできてくれるので、やっぱりかわいくてお世話をしてしまいます。
 今は、トイレを教えたり、おはしの持ち方やいろんな言葉を教えたりしています。何でもまねするのでかわいいです。
 弟が生まれてきてくれて、本当によかったと思います。
 ずっと小さいままがいいなぁと思うけど、これからもいっぱいお世話して、大好きなお姉ちゃんでいたいです。


日本アイ・ビー・エム賞 小泊 真歩 (金武中学校1年)
「生まれてきてくれてありがとう」

 お母さんのお腹の中に小さな小さな命が宿りました。夏休みの八月十一日二十一時十四分、我が家に一人家族が増えました。小さな体、小さな顔、小さな手、小さな足、 何もかもが小さい赤ちゃんは大きな声で泣きます。泣いているだけなのに、寝ているだけなのに赤ちゃんはみんなを笑顔にさせてくれます。
 私と妹は歳が十三歳も離れています。まさかまた私に妹ができるなんて夢にも思っていなかったから正直とても驚きました。友達に言ったらみんなもびっくりしました。一緒に 名前を考えてくれた人もいました。そのとき私は「今度生まれてくる妹はみんなが生まれてくるのを待っていてくれてみんなから愛されて幸せだな」と思いました。
 退院してから私はずっと妹から離れませんでした。歳がとても離れているから、私もお母さんになったような気分でした。
 でも赤ちゃんはとても大変です。夜も泣いたりしてみんな寝不足になります。
 私が初めて妹と二人きりでお留守番をしたときもとても大変でした。お母さんたちが買い物に行った五分後くらいに泣き始めたのです。私はとにかく抱っこをしました。そしたら 泣きやみました。安心してベットに寝かせたらとても大きな声で泣き始めました。私はどうしたらいいか分からなくなってお母さんに電話をしました。そしたら、 「糖水をつくってあげて」と言われました。糖水とは砂糖を溶かした水のことです。私はいそいでつくりました。妹は哺乳瓶をくわえたとたん泣きやんでゴクゴクと飲みました。私はこの間、 お母さんはこんな大変なことを毎日してるんだと思うとお母さんはほんとうにすごい人だなと改めて感じました。
 妹は時々笑います。その顔はとても可愛くて家族みんな妹にメロメロです。一番面白いのはお父さんです。見た感じちょっと怖そうだけど妹をあやす時は人が変わります。我が家は 三姉妹だから男はお父さん一人だけです。ちょっとかわいそうだけど妹のオムツを替えたり抱っこをしたりしているときのお父さんの顔はとても嬉しそうです。妹が生まれてからみんないつも 笑っている気がします。だから、妹が生まれてきてくれて本当によかったと思います。
 これから、ハイハイをして、立つようになって、歩くようになって、お話をするようになったりする成長がとても楽しみです。そしてまだずいぶん先のこととは思うけど、 一緒にオシャレをして色々なことを話しながら旅行やおでかけに行きたいなと思います。
 愛衣ちゃん、生まれてきてくれて、本当に本当にありがとう。成長がとてもとても楽しみです。


日本アイ・ビー・エム賞 西尾 莉々子 (博多中学校2年)
「私の大好き辞典」

 私の大好きはたくさんあります。
 一つは、私は吹奏楽部に入っているので、その部活仲間です。この前、一年半一緒にやってきた先輩方が部活を引退しました。最初は引退するという実感がありませんでした。しかし、 いざとなったら、先輩がいなくなったらどうしようという思いが込み上げてきました。そのとき、私は先輩が大好きなんだなと思いました。先輩だけでなく同期の仲間、後輩、 顧問の先生方も、これから大切にしようと思います。
 2つめは、おばあちゃんです。おばあちゃんは、テストのときお腹が痛くならないように、痛み止めを送ってくれたり、福岡に大雨が降ったとき心配して電話をくれたり、 とにかく私のことをいつも考えてくれます。私はそんな優しいおばあちゃんが大好きです。
 3つめは、おばあちゃんの家の犬です。今は「るな」という犬を飼っていますが、前は「ふく」と「みっきー」という犬も飼っていました。私はふくとみっきーが大好きで みっきーは私が小さいころに亡くなったからわからないけど、ふくちゃんは、おばあちゃんの家に行ったとき一緒に散歩をしたりして本当に大好きでした。でも、 3年前に亡くなって私はすごく悲しみました。でもそこで、るなちゃんに会って、ふくちゃんに似ているということでるなちゃんも大好きになりました。
 3つめは家族です。両親は共働きで、たまに帰ってくるのが遅いときがあるけど、それでも、私が寝る前までには帰ってきてくれます。私はひとりっ子なので、 なにかと気遣ってくれています。特にお母さんは、仕事で忙しいのに、全ての家事をやってくれています。私はたまに手伝ってますが、かなりストレスがたまっていると 思います。お母さんは自分の欲しいものもがまんしてまで家族のことを考えてくれています。私はやっぱり家族は一番大切だと思います。自分の味方についてくれる人が いるのはありがたいとおもって生活していこうと思います。私は家族が大好きです。


日本アイ・ビー・エム賞 嘉村 悠平 (平尾中学校2年)
「大好きな祭り」

 僕は、縁あって2才の頃から山笠に出させてもらっています。おじに抱っこされて泣きながら箱崎宮の参道を走ったのが最初だと母に聞きました。
 それから、一人で走ることができるようになり、毎年少しずつ走る距離も長くなっていき、小学校3年生でまねき板を持って走った時、初めてまねき板の意味を知りました、
 小学校六年で先走りを卒業、中学生になり「若手」大人の仲間入りをし、山笠の事をいちから教えてもらいました。少しずつ山笠のことがわかってくると、 なんだか楽しく思えてきました。そして今年は、大人の人達と一緒に山を舁く事ができました。
 山笠の事を学んで、山にふれる事ができるようになって山笠が好きになりました、そして僕にとって山笠は「大好きな祭り」になりました。
 僕は毎月「大若会」という集まりにも参加させてもらっています。あの一トンもある山を走らせるためには、一年を通じて、みんなとのコミュニケーションを大切にして、 夏にむけて気持ちを盛り上げていくんだと分かりました。
 山笠は、舁く人の力だけでうごくのではなく、いろいろな人の思いや協力があって、走らせることができるとわかり、あらためていい祭りだなと思いました。
 七百年以上も続く博多を代表する祭り、博多祇園山笠が大好きです。


RKB毎日放送賞 伊田 心 (照葉小学校2年)
「大好きななっちゃん」

 わたしには、もうすぐ二才になるいもうとのなっちゃんがいます。
なっちゃんは、わたしのまねをするところがかわいいです。
たとえば、わたしが走ったらなっちゃんも走ってわたしのことをおいかけたり、わたしがうたったらなっちゃんもわたしのまねをしてうたいます。
わたしがあっかんべーをしたらなっちゃんもあっかんべーをします。
わたしはままからなっちゃんがまねをするからやめてと言われてることがたくさんあります。
たとえば、なんでもこわいこわいとゆうことや、あれきらいこれきらいと言うことです。
だからなっちゃんの前では強いおねえちゃんです。
だけどたまになっちゃんにつねられたりかまれたりして、わたしはないてしまいます。
そしたらなっちゃんに「つねっちゃだめだよ。」とおしえてあげるとまだじょうずにごめんねといえないからごめんねの「ね」だけを言います。
ぎゃくにわたしがわるいときは、「ごめんね」というとなっちゃんは「いいよ」といいます。
わたしが「ありがとう」というとなっちゃんも「ありがとう」といいます。
わたしにはそんななっちゃんが大すきです。


RKB毎日放送賞 上田 穂乃香 (博多小学校3年)
「大すきな山笠は、わたしのせい長計」
 山笠で、私が、できるようになったことが、年ねんふえる。今年は、子ども山笠で、後おしをした。前の人のしめこみをにぎり、あたまを下げ、足をふんばる。
「いち、にいのヤー。」
で前の人をしっかりおす。山がすすむ。とちゅう、ひじがまがってしまい、後ろの人から力強くおされたしゅんかん、ひざから落ちてしまった。次から、気をつけようと思った。
 子ども山でまねき板も持った。東流の山でもちょうせんした。速いので、とてもきつかった。
 私は、一歳のころから山笠に出ている。朝山の台上がりで、大泣きしたけど、動き出したら泣きやんだらしい。毎年、あたり前のように山笠に出ている。5歳、お汐い取りで、 はこざき宮まで走れた。6歳、今度は、はこざき宮までの行きも、帰りも全部走れた。足のうらがすっごくいたかった。だけど、去年より、できることがふえて、うれしかった。
 来年は、子ども山笠で、かきぼうをおす後おしをしたい。東流では、小さな子どもたちをつれて、先走りするのをがんばりたい。
 わたしの山笠せい長計、どこまで計ることができるのかわからない。本当は、山笠をかいてみたい。ひろ兄のかたが赤くなって、血が出ているのをみている。重たいんだろうな。
わたしも、かいて、重たさをかんじたい。いつか、いつか、ぜったいに出られなくなる山笠。その日まで、今、できることを思いっきりがんばりたい。


RKB毎日放送賞 高田 桜美 (東住吉中学校1年)
「私の好きなこと」

 私は、普段から、音楽を聴くことが好きです。曲には、邦楽、洋楽とありますが、私はどちらかというと洋楽が好きです。
 洋楽を聴き出したきっかっけは、まだ私の小さい頃のことだと思います。私の小さい頃、お母さんはいつでも音楽を聴いていたことを覚えています。それが洋楽でした。とくに 曲を覚えているのは、エブリーブラザーズや、ビートルズです。今聴いても、小さい頃この曲ながれてたなあ、と思うくらいです。昔から聴いていたからこそ、なじみがあるのだと 思います。こんな風に思い始めたのは、4年生のころでした。小さい頃のことがきっかけで、4年生からは自ら洋楽を聴き始めました。
 そしてわたしが六年生、去年の12月、気に入った曲がありました。洋楽のクリスマスソングCDで、色んな人の曲が入っていました。そのCDを聴いているうち、同じ季節の曲でも 歌い方やリズムによってこんなにも違うんだなぁ、と感じたり、この曲はどんな歌詞だろうと思うようにもなりました。そして、そのCD中で気にいった曲が WHAM! のラストクリスマス でした。ラストクリスマスの歌詞も見て、歌い方や音は、クリスマスだ!という感じでした。歌詞は切ない感じなのに、曲の雰囲気とは重ならなくて、こんな曲もあるんだ、と興味をもち、 別の曲を聴くときも歌詞を見るようになりました。
 音楽は歌い方や弾き方だけで、相手に大きな影響を与えることや聴き手によって、感じることや、考えることがそれぞれ違うこと、例え、自分が聴かせる側だとしても、 相手にどんな風に聴かせよう、どういう思いをこめようか…と感じさせる。そんなところが音楽の良さであり、面白いところなんだ、と私は思います。これからも様々な音楽にふれ合って、 他の人の感想、自分の感想をもって、もっと音楽の良さを味わっていきたいです。


RKB毎日放送賞 松尾 文寧 (野間中学校1年)
「テレビよりラジオ」
 私がラジオを聴き始めたのは小六の一月ごろで、父にCDコンポを買ってもらったことが始まりでした。最初はなにげなくチャンネルを変えながら聴いていたけど、 一週間くらいたった日、中高生向けのおもしろそうな番組があっていて、それから毎日その番組を聴くようになりました。
 それは「スクールオブロック」と言う番組で、「ラジオの中の学校」という設定なので、パーソナリティは「校長」と「教頭」、私達リスナーは「生徒」に なっています。私が本当の学校でゆううつな事があっても、家に帰って夜、第二の学校に元気をもらうことができます。また、授業のうち、「けいじ板逆電」というものがあり、 今日思った事、うれしかった事、辛かった事、自慢、なんでもけいじ板にかきこんで、校長達が気になったメールに逆に電話をしていくものです。いつも、逆電され人で、 いじめられていたり、学校に行けなかったりしている人たちが多いのですが、その時の校長達と生徒のやりとりはいつも、深く心にしみます。そんな時の校長の口ぐせが、
「おまえ達は一人じゃない。」
です。子どもの小さな悩みでも、いつも真剣に考えてくれて、
「こんな大人がもっといたらいいのにな。」
と思います。
 私がこの番組を気に入る理由は、「黒板」です。毎日ラジオの終わりに、まとめとして校長が黒板を書きます。ラジオだから、書いている姿は見ることができないけど、カツカツとひびく音を聞いて、
「自分のために書いてくれている。」
と勝手に思っています。
 私がラジオを好きな理由は二つあって、一つは、テレビと違って聴くだけで楽しめるという事です。テレビだったら、聴いただけだとおもしろくないし、よく分からないけど、 ラジオだと聴くだけでいいし、本と同じように情景を想像できるので、私的には一番身近に感じられるメディアだと思います。二つ目は、一対一で対話ができるということです。
パーソナリティはしゃべる時、ラジオの前で聴いている人がいると想定してしゃべっているので、自分と二人だけで話しているような気がします。そう考えるととても楽しいです。
 私はラジオを聴き始めて、帰ってきて宿題をして寝るだけだった生活が、ささやかな楽しみにより、少し変わってきたと思います。
私の周りにはラジオを聞く人が少ないけど、もっとたくさんの人がラジオのおもしろさに気付いてほしいです。そして私は、今も、これからも、ラジオが大好きです!


RKB毎日放送賞 仲村 杏花 (下山門中学校3年)
「お父さん」

 私の家族はお父さんとお母さんと妹と私の四人家族です。お父さんは、単身赴任なので鹿児島に住んでいます。私が小さいときからずっとお父さんは単身赴任で、 いろんな所に住んでいるのであまり一緒に暮らしたことがありません。土日などの仕事が休みの日に家に帰って来て日曜の夜には帰ってしまいます。
夏休みなどの長い休みでも一週間くらいしか家にはいなくて、すぐに鹿児島に帰ってしまいます。小さいときは、いつになったらお父さんは私のお父さんになるんだろうとか、 どこでもドアがあったらいいのになとか思っていました。でも、今はそんなこと思いません。
お父さんは鹿児島から毎週何時間もかけて車で帰って来てくれます。仕事で疲れていても夜遅くなっても帰って来てくれて次の日にはいろんな所に連れて行ってくれたり、いろんな話をしてくれます。
 私は、お父さんの話してくれる話が大好きです。お父さんはいつもおもしろい話で家族を笑わせてくれます。私が困ってる時や、勉強してる時も変なギャグで笑わせてくれます。
 お父さんが、家にあまりいなくて私は、さびしかったし、私が真剣に考えてる時でも笑わせてきたりと少し大変だけど、私にはお父さんが私のお父さんでよかったと思います。


NPO博多の風賞 本田 景三朗 (照葉小学校1年)
「しょう兄えい兄大すきだよ」

 ぼくには、十五さい年上のしょう兄と十三さい年上のえい兄がいます。ぼくが生まれたときは、お兄ちゃんたちは、はる休みだったので、ぼくが生まれるのをびょういんで まっていてくれたそうです。ぼくが生まれて、一ばんはじめにだっこしてくれたのは、しょう兄だったそうです。いま、しょう兄は、しずおかけんの大学にいっているので、 なつ休みとふゆ休みにしか、あえません。えい兄は、いえから大学にいっています。ぼくは、しょう兄がかえってくるのを楽しみにしています。りゆうは、えいがにつれていってくれたり、 あそんでくれたりするからです。今年のなつ休みは、しょう兄のともだちが四人もいえにとまって、にぎやかでした。みんなと一しょに、しかの島のうみにいって、 たのしかったです。わかめをとってあそびました。でも、しょう兄も、えい兄も、ぼくが「あそんで!!」としつこくいうと「うるせー。」と犬のおりに入れさせようとしたり、 いろいろなこうげきをしてきます。ぼくも、まけずにこうげきをすると、いつのまにか「たたかいごっこ」になってます。ぼくは、ウルトラマンやヒーローになりたいので、 お兄ちゃんたちが、わるものになってくれると、うれしいです。
 きのう、しょう兄がしずおかにいきました。今までは、わかれるのがさびしくて、ひこうじょうで、ないていました。今年のふゆ休みは、「四月から一年生になるからなかない。」と きめていたけれど、ひこうきがみえなくなると、やっぱりさびしくて、少しないてしまいました。きのうみおくったときは、なかなかったけれど、いえにかえるとしずかで、さびしくなり、 ないてしまいました。また、一しょにあそびたいな。しょう兄えい兄だいすきだよ。


NPO博多の風賞 木村 快帝 (博多小学校3年)
「おい山」

 ぼくは今まで山かさにさんかして、全部走れたことがありませんでした。今年は、三年生になったので、お父さんに
「全コース、がんばって走れ。」
と言われました。心の中では、
「え?走れるかいな。」
と、とっても不安な気もちになりました。でも、山かさが大すきなびょう気のおじいちゃんにそのことを話すとよろこんでくれるかなと思って、がんばることにしました。
 十四日の夜、ぼくは体がとてもつかれていて、だいじょうぶかなと心ぱいになってきました。でも、心の中で
「おじいちゃんを、よろこばせよう!。」
と思って、がんばることにしました。
 十五日の朝、じっさい走りはじめると、やっぱり体がきつくなってきました。
「あー。きついな。やめたいな。」
と何ども思ったけど、そのたびに
「おじいちゃんがよろこんでくれる。」
と思い出しながら、さいごまで走りぬけることができました。とてもきつかったけど、
「やったー。」
という、とてもいい気もちになりました。
 ぼくは今年、山かさを全部走ることができて、もっともっと山かさがすきになりました。また、来年が楽しみになりました。


NPO博多の風賞 藤本 初音 (千代中学校1年)
「〜七百七十一年〜の伝統を」

 七百七十一年の伝統、博多祇園山笠。ぼくは、その七百七十一年目に、大人の仲間入りをしました。初めての大人としての参加で、とても、きんちょうしました。特に今年は、 ぼくの出ている流、千代流が一番山です。さらに、当番町、おじいさんが総務です。そんな年に、初めての大人としての参加なので、すごいことだと思います。TVの取材もきました。ぼくも、 TVには、映りたいです。けど初めての大人としてだから、なにをすればいいのか分からないのと、なれていないカメラマンがずっと撮影しているのは、ものすごくきんちょうします。
 でも、なれてくると、なにをしたらいいのかが、少しはわかったり、カメラマンの前でも、声を出せるようになったりできるようになりました。だから、カメラマンがいてもいなくても、 声を出せるようになりたいです。来年は、大人としての参加も二回目になるし、カメラマンもいないし、きんちょうは、あまりしないと思います。だからこそ、大きな声でかけ声を出したいです。
 ぼくは、最初は背がたりなくて、舁けないと思っていました。でも、勇気をだして、舁いてみると、少しだけ、舁く場所がちがうだけで、舁くことができました。それからは、 舁ける時は舁いて、舁けない時は声を出す。その二つをがんばりました。でもさすがに、追い山は、タイムが付くので、一秒でも速くなって、ほかの流に勝ってほしかったので、 舁くのをやめました。でも帰りには、ちゃんと、舁きました。舁くことは、きついし、痛くなるけど、そのぶんの達成感がうれしいです。だから来年は、もっと舁きたいです。
 来年の目標は、一つ目が、声をもっと大きな声で出すです。理由は、今年は、来年のために、九十九点にしたから、百点になれるようにがんばるからです。二つ目は、 もっと山を舁くことです。理由は、追い山のときは舁けなかったから、追い山で舁けるように、練習をかねて、もっと舁きたいです。
 ぼくは、七百七十一年も続いた伝統を、とてもほこりに思います。


NPO博多の風賞 白水 将太 (小呂中学校2年)
「みんなが大好きなこと」

 僕にとって、「皆が大好きな祭り」は、僕の住んでいるところ、独特の山笠です。
 僕が住んでいる小呂島という小さな島で、その山笠は行われています。名前は、小呂山笠です。小呂山笠は、博多で行う山笠とは違い、移動では走りません。また、 この山笠は、島の中の神社や家、街の中の通りなどを通っていきます。ここで一番勢い水をかけられます。一本じめをして山笠が終了すると、お宮へ登って赤飯のおにぎりをもらいます。
 小呂山笠が終わったら、次に小中学生全員が参加する子供山笠があります。進むルートは、大人の山笠よりも少し距離が短くなっています。いわいめでたの歌も、 このときは子供が歌います。男子は一人で歌うところが割り当てられるので、本番で失敗しないためにも、一、二週間前から島の山笠について知っておられる方と歌の練習をし、本番に備えます。
 子供山笠の飾りつけも僕達がします。この準備が最も大変な作業です。竹を組んだり、その中にかやを入れたりします。竹を組み終えたら、ひもで組んだ部分を結ばなければいけないので、 二人でする必要があります。これが、この作業の中でも最も難しい作業です。
 僕は、十三年間小呂山笠をしてきました。島の年配の方による話では、小呂山笠をしなかった年は、船の事故が起こったり、魚があまりとれなかったりしたそうです。僕は、 その話を聞いて小呂山笠は大切な祭りなのだと知りました。これからも、この大切な文化を守り、ずっと残していけるようにしたいです。


NPO博多の風賞 幸 百伽 (多々良中学校3年)
「私にとってかけがえのないもの」
 私が大好きで夢中になっているのはお菓子作りです。小学校六年生からずっと大好きで、週に一回はかならず作っています。お菓子作は私にとってストレス解消にもなります。
 今、私は受験生で、毎日毎日勉強の日々です。はっきりいってやめたいです。逃げだしたいです。だけど日曜日お菓子作りをすると楽しくて、いつもつらかったことを忘れています。それに、 お菓子を作って持っていくと、みんな「おいしかったよ。」といってくれます。その言葉を聞くと心が温かくなります。
 お菓子のおかげで新しい友達を作ることもできました。私は人見知りなのですが、なぜかお菓子を渡すことができるのです。そしたら自然に会話もはずみます。
 そんな私は将来パティシエになりたいと思います。私にとってお菓子作りは、なくてはならないものです。私の大好きなことを仕事にできるなんて、本当にいい仕事だと思いました。
 パティシエという職業はたくさんの人を笑顔にさせることができます。だけどパティシエになることは難しく大変です。パティシエになることができても成功するのは ほんのわずかです。私はそのほんのわずかに入りたいです。
 そのために高校を卒業してケーキ屋さんに就職したいです。専門学校という手もありますが、私の家にはあまりお金がありません。でもパティシエという職業をどうしても あきらめたくありません。高卒でやとってくれるお店は少ないと思います。だけど本当にここで働きたいと思ったお店に何度も何度も頭を下げて頼みます。断られるかもしれませんが、 何回も行きます。働かせてくれるまで頼みます。私の夢ははんぱな夢だなんて思われたくありませんから。
 パティシエとして働けるようになっても勉強することはあります。たくさんおこられると思います。だけど私の大好きなことだからへこたれずに頑張っていけると思います。
 そしていつかはフランスに留学して本場のお菓子を学びたいです。今までの経験を活かして自分だけのオリジナルのお菓子を作りたいです。
 その一つ一つのお菓子に、私は本当にこの仕事が好きなんだという想いをこめて作ります。その気持ちが食べた人全員に伝わればいいなって思うし、その人たちが笑顔になったらうれしいです。
 私の大好きなことを自分の仕事に出来るよう日々頑張っていきます。








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